ストーリー
第5話:一陣の風のように
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「(……あの樹ね)」
走りながら、ニボシは一瞬でターゲットの位置を見定めた。その樹は人がひとり隠れるのに十分な太さがあり、直接は相手の姿を見ることができない。にもかかわらず、彼女の直感はそこに間違いなく何かがいることを告げていた。これはおそらく、彼女の「猫」としての身体感覚なのだろう。
身を極端に低くして音もなく疾走する彼女の姿は、純白の草原に吹く一陣の風のようだった。もちろん、植物がすべからく緑色である限り、この世界に白い草原などは存在しない。しかし、それでもアツマの脳裏には、雪のような白さの広大な草原がはっきりと焼き付いた。そして、彼はそこで吹き去っていく風に手を伸ばすのだけれど、どれだけ追いかけても、彼の手は虚しく宙をつかむばかりなのだった。
「(……来る)」
相手が樹の陰から動こうとしている。こちらは向こうの攻撃パターンが何もわからない。できれば出合い頭の衝突は避けたいところだ。機先を制することができれば、たとえわずかでも勝機があるに違いない。しかし、相手は既に、こちらに対して何らかのアクションを起こそうとしている。
樹の幹の地上から1メートル数十センチぐらいの高さに、突如として何かが現れた。頭だ。距離はまだ残り5メートル。飛び掛かるには距離があり過ぎる。ニボシは距離を詰めつつ、相手を威嚇するための強烈な視線を放った。
「(……!)」
その刹那、彼女は自分の身にただならぬ変化が起きたことを感じた。身体が動かない。――いや、正確には彼女は今も走り続けているのだが、脚が急に自分の意志から離れて、勝手に動いているような感覚に陥った。そして、彼女の思いに反して、身体はグッとブレーキをかけて減速する。
こちらの中枢神経に作用を及ぼす超能力、あるいは兵器でも持っているのだろうか。とすれば、さすがはギガスパイアと言わざるを得ない。「(殺られる)」とニボシは覚悟して、奥歯を噛みしめた。
気が付けば、スピードはもはや歩くぐらいになっている。身体にはまったく力が入らない。そして、相手はちょうどそれを見計らったように、樹の陰から一歩、足を踏み出した。ニボシは、その足元に歩み寄るような形で相手に近付いて行った。
「にゃー」
思いもかけず、ニボシは猫の鳴き声で鳴いた。声も、自分の意志でコントロールできていない。彼女は身を固くして、相手の次の動きに備えることしかできなかった。いや、それですら、彼女が「固くした」と思っているだけであって、実際には何もできていないのかもしれない。
「……ニボシ、大丈夫!? 怖かったでしょう?」
予想外の猫撫で声で相手が話しかけてきた。見ると、そこにはアツマと同年代か、あるいはちょっと年下ぐらいの少女が、腰を屈めて心配そうにニボシの顔を覗き込んでいた。
「もう大丈夫だからね。……よくがんばったね」
少女はニボシの頭を撫でながら言った。そして、すっと立ち上がると、視線をまっすぐアツマの方に向けた。その澄んだ瞳のなかには、非難と憐憫の色がわずかに浮かんでいる。
「アツマさん、あの、私、何も見てなかったので。……なので大丈夫です。……でも、ニボシがかわいそうだから、もうこういうのはやめてください」
距離があるため、少女は少し声を大きくしてアツマに話し掛けた。気丈に声は張っているものの、唇がわずかに震えているのがニボシの位置からは見て取れた。
「えっと、いやあの、『こういう』ってどういう? っていうか、いつから見てたの……?」と、アツマは恐る恐る聞いてみた。
「あ、いえ、見てないです! 本当に。メタモルフォーゼとかそういうの全然! 見てないです」
少女が必死に否定したにもかかわらず、その言葉は、アツマの心を永久凍土のごとく凍りつかせた。血の気が引いて呼吸が浅くなる。酸素が足りずに水面で口をパクつかせる金魚にでもなった気分だ。でも同時に、これはこの状況を打破するチャンスかもしれない、とアツマは遠のく意識の中で思い至った。
「見てたなら……見てなかったのかもしれないけど、……とにかく、聞いたよね? この猫が喋るのを」
たとえここまでの一連の彼の行為を見られていたとしても、それは猫が口をきくという非現実性の前では極めて小さな問題に違いない。今、アツマにはそれが一筋の光であり、意識を正常に保つための最後の砦だった。
「……アツマさん」
少女の顔がみるみる青ざめていくのがわかった。唇は、今はわずかどころではなく、ぷるぷると震え始めている。憐れなものを見ながらも、それを憐れんではいけないと言い聞かせる自分との葛藤。その目には涙すら溜めている。
「……ごめんなさい。私、今はちょっと動揺しちゃって、何もできないんですけど、でも、とにかく無理しないでください。……きっと大丈夫ですから。」
そう言うと、少女は「行こう、ニボシ」と声を掛けて、小走りで坂の上の方向に走り出した。その数メートル後方を、ニボシは「にゃん」と鳴いてぴょこぴょこと付いて行く。
「ちょっと待って! ユッキー! これには深い訳が……」
後にはアツマだけが残された。